過信for me≒確信for somebody

ある人の日記を読んで、とても驚いたことが二つありました。
一つは、その人が、「Aであり、Bであり、Cであり、Dである」と言っていることが
私にしてみたら全く逆で、「Aでなく、Bでなく、Cでなく、Dでない」だったこと。
二つ目は、まったく逆のことを言っている(思っている考えている)にもかかわらず、
「そして(故に)、Xである」とたどり着く先がほとんど同じ、
「そして(故に)、X’である」であったこと。


X(及びX’)という考えに及ぶ、アウトプット方法が異なっているだけ。
同じ言葉というツールを使用しているにも関わらずね。
「Aである」とういうことと、「Aでなない」ということに本質的な違いは実はないのではないか?
内田先生がいう、言葉の誤解性の余地ということ。



ただたんに私は、何事に対しても、ゆらゆらとふわふわとぐにゃぐにゃと、
漂うようにあることを好むし、それが私のThe Way to Surviveである。
過信というものをいつも恐れている。その場その場で疑うことなく出したジャッジは私にとって、
過信そのものであることがほとんどで、その過信しているものが何かというと、紛れも無い自分である。
だからいつもできるだけ多くの可能性や選択肢を持って、知って、修正の余地を自分に与える。
何事にも囚われない良い癖ともいえるし、
何事も得ることができない悪い癖ともいえると思う。
でもただそれは、好みの方法ってことに過ぎない。
かつ、経験上、実は私にとって一番道に迷わない方法でもあると思っている。
決断し、確信し、ゆるぎなく、余分な要素を排除していく、
この方法ではきっと、行きたいところにたどり着けない、どころか行き倒れてしまうだろう。
逆に、目の前の選択を迷いなくこなしていく方法で進む方が先に進める人がいる。
漂って、ふらふら、ゆるゆる泳いでいると、思ってもないとこに行き着いちゃって途方にくれるんだろう。


迷わないという茨
わかっているという鎖
揺るがないという頭痛
自分で自分の道を困難にしてしまう


迷う水中
わからない沼地
揺らぐ灼熱
困難な道に入り込んでしまう



同じ困難な歩みであるなら、私は水の中を進むことを選んでいるということなだけ。
きっと、一緒なんだよ。進んでいる先は。
本能的に自分が一番効率よく進めるだろう方法と道を選んでいるだけ。
それが一見、全く逆のことばかりしているようでも、
たどり着く場所は、それほど違いのない離れていない場所なんだろう。
そして共通しているのは、恐怖だと思う、恐怖からの保守。


でも、茨や鎖がない、水の中を泳ぐ必要もない進み方はあるはずだと思う。
それがわかるに必要なのは、経験であり、知恵であり、年齢であるんだろう。
自らの体は不自由になっていけど、進むべき道はより快適にわかりやすくなっているはず。
足りないのは、WISE。
恐怖から自身を過度に保守する必要もないくらいの。