おばやしのおばあちゃん

おばあちゃんに会った時の事をやっぱり書こう。
朝6時に大阪について少しゆっくりしてから、
阪急線に乗っておばあちゃんに会いに行く。
降りるは小林(おばやし)。なつかしーなーと思いながら
キラキラ光る朝日の中知っているような知っていないような道をテクテク歩く。
久しぶりに会うおばあちゃんは小さくなってたけど元気そうだった。


毎朝7時からは朝の礼拝、聖書を読む。
それから朝御飯。ハムエッグとトーストとサラダ。
食事の前の真剣なお祈りに少し心が痛む。
八時からは朝ドラ、ゲゲゲの女房

ちょこちょこと話の間に
「陽子ちゃんは好きな人はいないの?」とか
「どんな方が好みなの?」
なんかの質問をおりまぜてくる。
おばあちゃんごめん。と思いながら、
「どんな人でもいーよー」とかヘラヘラ言ってたら、
「あそう、どんな方でもいいの」と言ってるおばあちゃんの頭の上に
「見・合・い」の三文字が見え、ヒイ!と思って、
「どんなひとでもいーってことはないけどね、気があえばさ、気が、ナハハ」
とさりげなく流してみたり。あぶねー!


昼ごはんを済ませて、おばあちゃんが行くって言う、
コンサートに同行することにした。
フルート二人とピアノのシンプルな演奏。
胸につかえているものが少しふんわりする感覚に、
音楽はいいな、クラシックいいな。と思う。
フルートってあんなに多様な表現ができるんだ。知らなかった。
音楽は私の水を外から刺激する力だと思った。
がっちりと固めた神聖な水を揺らしたり門を開いたりする。
文学は逆に内側の水を熟成させるような力かと思った。


お皿を洗ったり、荷物を持ってあげたり、車から守ったり、
当たり前のようなことができるようになっている自分に気づく。
さいころは本当にいやなガキで年寄り特有のお節介さや干渉の仕方が嫌いで
随分冷たくしたことを思い出し、なんて酷い子供かと思った。
絵を描いたり、カナダに行ったり、いまでもモノを作っている私をいつも一番応援してくれていた。


いろんな話をして、神様の話とかして、
「人生80年以上も生きてきたけど、やっぱり楽しかって思うわ。
いろんな困難があったけどそれをなんとか乗り越えて今楽しかったって思うわ。
楽なことばかりじゃ退屈よね。大変だからこそ楽しいのね。」
誰でもが言っている様なことば。
米寿の年季。すごい。


友人と会うのに、西宮北口のホームでお別れ。
最後に握ったおばあちゃんの手はあったかくってふわふわしてた。
おばあちゃん元気で。またね。
また絵を描いたりしよう。会いに行ってよかった。
おばあちゃんと別れてから、つかえているいろんなものと合わさって
2滴だけ涙が出た。



さて明日は太陽の塔のはなし。