きっとぼくたちはただちがうそらのしたで

できるようになったことがいくつかある。
たとえば、掃除ができるようになった。(というか汚いのが嫌になった)
それでも部屋は汚いままだけどいくらかまし
家を掃除するのも、食器を洗うのも。
掃除のほかにもいくつかできるようになったことがあって、
その全ての元は多分、苛々しなくなったってところにあるんじゃないだろうか。


あることがあって、嘘のように苛々しなくなって、今でもそれが続いている。
苛々する、という感情をはるかに超えた感情をたくさん持って、
苛々が入る隙間が無かっただけのように思う。
苛々してるときの傲慢な精神状態が解きほぐされるといろんなことがやわらかくなる。


逆に、できなくなったっていうか、元に戻ったってところも私にはある。
そうだな、そのときは、耳をふさいで、口をつむいで、顔を隠して、
心に氷を張り渡す。なつかしい居心地のいい状態。
閉じこもれば閉じこもるほどらくだらくだ。
浮きもせず沈みもしない状態に自分を置くことができる。
動き出すことの、沈むことの、ましてや浮くことの苦しみを誤魔化す。


いつだって動き出すのには時間がかかる。
50歩も100歩も遅い。
5年も10年も遅い。


あなたはどこに向いますか?
私がどこに向うかはきっと私が決める。


シンクロニシティ
それは共時性ということではなく、
反応しているに過ぎないと思った。
かっこう、の原理。
とてもせつなくいとおしくセンチメンタルで退廃的


かっこうを超えて手をつなごう