家族になろうよ

今年はミクシイやらツイッターやらをやめたのはよかったなと思っている。
やめたからといってネットから離れたわけではないが、
むやみに発信することをしないというだけでなんとも楽である。
しかしやっぱり、抑えられないからやめる、しかできないわけだ。馬鹿か。

だけど、あっちやこっちに私の分身のような自我を置いておく必要はないのである。
なかったのである。やめてみるとよくわかる。
そこにあった分身がいなくなっても、何も変化はない。
驚くなかれ、本当にないのである。
ということはそこに溢れていた情報は必要がなかったということだ。
そこに溢れさせていた自我は要らなかったということだ。
いいのか悪いのか、そんなことは問題じゃない。

私はここにいる私がいれば、それでいいのだ。
話したい人がいれば、私が話します。
伝えたいことがあれば、私が伝えます。
会いたい人がいれば、私が会います。
やりたいことがあれば、私がやります。
ひとつに戻ると自身の求めるものがよくわかります。
わかっては怖いこともあるだろうけど、まやかしに振り回されるよりは
よっぽどましだろうと私は思います。
ひとつになったって、こんなにもできないことだらけなのだから、
コントロールできない自我を放っている場合ではないのである。

知る必要がないことを知るのも、言う必要がないことを言うのも、
掌握できない分身もむやみであったのだ。

自分が自分自身であると思っているのは、
実は必要のない分身ではないですか

私はひとつです。
あなたはひとつです。
ひとつにはひとつの容量がある。
その許容を超えることは何時もいい結果を招かない。
その自我は果たして一人歩きをはじめ、オリジナルを飲み込もうとするだろう。
人間が作ったはずのシステムが暴走し人間を脅かすように。




今年はわけあって、年末年始はいつもより長く実家にいる。
掃除、料理、食器洗い、掃除、料理、食器洗い、掃除、料理、食器洗い
御節、御節、御節、御節、料理、食器洗い、御節、
大変だね、主婦は。

なんだか今とても変な気分。
自分が今なんでここにいるのかいまいちよくわからない感じ。
必然のような不本意のような。
俗世から離れているみたいな気分だなあ。
そこは遠く遠くだね。
そうだなー。本当に遠く遠くだな。
もう届かないかもしれないね。
もしくは違う空の下か。

このぱっとしないDNAに打ち勝ちたいものです。