すみれ

「−どうして書かずにはいられないのか?その理由ははっきりしている。何かについて考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみる必要があるからだ。
 小さなころからずっとそうだった。何かわからないことがあると、わたしは足もとに散らばっている言葉をひとつひとつ拾い上げ、文章のかたちに並べてみる。もしその文章が役に立たなければ、もう一度ばらばらにして、またべつのかたちに並び替えてみる。そんなことを何度か繰り返して、ようやくわたしは人並みにものを考えることができた。−
中略−
  私は日常的に文字のかたちで自己を確認する。
   そうね?
  そのとおり!


 しかしミュウに出会ってからは、わたしは文章というものをほとんど書かなくなってしまった。どうしてだろう?−中略−
わたしはつまりおそらく、思考すること-もちろんわたしが個人的に定義するところの思考すること-をやめたのだ。−中略−
わたしが何を知り、何を知らないのか-その違いさえ、わたしにはもうどうでもいいことなのだ。


−わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。
 理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。−

−わたしたちの中には、「知っている(と思っている)こと」と「知らないこと」が避けがたく同居している。そして多くの人はそのふたつのあいだに便宜上についたてを立てて生きている。だってその方が楽だし便利だから。でもわたしはそのついたてをあっさりと取り払ってしまう。だってわたしはそうしないわけににはいかないから。だったついたてなんて嫌いだから。だってそれがわたしという人間なんだから。−


−つまりわたしがここで言いたいのは、人が「知っている(と思っている)こと」と「知らないこと」をそのまま仲良く同居させようとするときには。それなりに巧妙な対応策が必要をされるのだということだ。その対応策とは-そう、そのとおり-思考することだ。言い換えれば、自分をどこかにしっかりとつなぎ止めておくことだ。そうしなければ、わたしたちはまず間違いなく、ろくでもない罰当たりな「衝突コース」を進んでいくことになる。
設問。
 それでは、まじめに思考することもせず、そかも衝突を免れるためには、人はいったいどんなことをすればいいのでしょう?-中略-夢を見ることだ。夢を見続けること。夢の世界に入っていって、そのまま出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと。
 夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない、ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。−


いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。
わたしはこの台詞が好きだ。おそらくはそれが現実の根本にあるものだ。分かちがたくあるものを、分かちがたいこととして受け入れ、そして出血すること。銃撃と流血。

だからこそ、わたしは文章を書いてきた−


−ただ考えているだけだ。わたしはここのところずいぶん長いあいだ何も考えてこなかったし、これから先もしばらくのあいだは何も考えないだろう。でもとにかく今は考えている。−


−わたしはひとつ重大な決心をした。わたしのそれなりに勤勉なつるはしの先はようやく強固な岩塊を叩く。こつん。わたしはミュウに、わたしが何を求めているかをはっきり示そうと思う。このような宙ぶらりんの状態をいつまでも続けていくことはできない。どこかの気弱な床屋のように裏庭にしけた穴を掘って、「わたしはミュウを愛している!」とこっそり打ち明けているわけにはいかないのだ。そんなことを続けていたら、わたしは間断なく失われていくことだろう。そしてそのうちわたしという存在は流れに削り尽くされ、「なんにもなし」になってしまうことだろう。−


−もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?
 そうしたらわたしは事実をあらためて呑み込むしかないだろう。
 
血は流されなくてはならない。私わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない。

  そうよね?
  そのとおり。


 この文章は自分自身にあてたメッセージだ。それはブーメランに似ている。それは投じられ、やがてわたしの手の中に戻ってくる。帰ってきたブーメランは、投げられたブーメランと同じものではない。