輝くものは、いつもここに

私が今ここにいること、小石川の一軒家でノートパソコンで音楽を聴きながら、文章を書いている今、
すなわち私のこれまでの人生、しいてはこの先続いていくだろう人生は、
私が全てを判断し決断し選択してきたわけではない。
そもそも生まれたときから、どこで生まれるのか、どの人間の元から生まれるのか
自分で決められたわけではないのだから。

しかし、私の人生は私以外のほかの物事や人が全てを決めてきたわけではない。
これは私の人生だから(どう自意識を低く見積もっても)たとえば、あなたの人生にかかわる私の割合と
比較した場合、私の人生にかかわる私の割合は格段に高いはずだ。
これは私の今である。私は私の人生として私の人生を認識し、時に判断し、努力し、選択し、成長し、
諦め、得て、失ってここまでやってきたわけだ。
私の人生は私だけのものであると同時に、私の人生は私だけのものではない(なんのものでもある)。

私は私の人生の全てをコントロールできないわけであるが、私はこの私の人生でしか人生をすごすことはできないのである。
ほかの誰かの人生は絶対にすごすことはできない。
だけれども、私の人生が私の人生であり、なんのものでもあるのと同じように、
誰かの人生も誰かの人生であり、なんの(私の)ものでもある。
何もかもがひとつになる。

だけど私は、私のこの一個の人生しか生きることはできない。
誰かも誰かの一個の人生しか生きることはできない。
それぞれが、それぞれの人生をすごすことが、最初にも最後にも全てになる。
全ては起こった出来事や、生まれた感情や、発せられた言葉や、交わった関係や、放出されたエネルギーや、
死んでいったさまざまな事柄が合わさって今があり、今想像する出来事や、感情や、関係や、
生まれ来るものや、死んでいくもの全てが集結し今を存在させている。


未来について思ったことはもう今に返っただろう。
過去に起こった出来事は今に返っただろう。
私が今全てを懸けて想像することは、全て形作られるだろう。もう想像したのだから。
誰かが全てを懸けて想像したことは、全て形作られただろう。
何もかもが今に返っている。

今に集中するだけで、過去も未来もが思いのまま、手の中にある。
その手をずっとつなぎ合わせていって物事が進んでいくだろう。
それは私一人が想像したこととは近く、そして離れ、全ての人が想像した世界になるだろう。
一人ひとりが自分の中にもぐり、過去と未来を今につむぎ、つむがれた全てが合わさってかたちになるだろう。
それは今があることで証明ができる。

私の人生は私のものであり全てのものの人生である。
私一人では形作ることは不可能であり、私がいなければ存在することができないのである。
全体の一部であるものは代替のない個なのである。
個は一部であり全てなのである。