ACCEPT

今の自分をそのまま受け入れる

ということはとても苦痛なことであると思う。
現代っ子として生まれた私たちは、夢はかなう、努力しろ、と育てられてきた。
育てられてきたよね?
夢はかなう。その言葉の裏には、「だからできるだけ努力してできるだけ背伸びしてできるだけお金を稼いで
できるだけ人と差をつけて、そうしないととても幸せな人生はありませんからね。」と、そういう大変窮屈なメッセージがある。
それは、やればできるとか、夢はかなうんだよとか、事実本当の真理とは違うはりぼてのメッセージだった。
そうやって生きてきた私たちはこの年齢になっても、いつだってまだまだまだまだ先へ上へ、
なんだかよくわからないけどなんか知っているような気のする幸せを夢見ている。
では、そうやって生きてきて今なにを手にしているか?
と、ふと立ち止まってしまったとき、今までの疾走はいったいなんだったのだろうかと思うほどに、
自分というものが手にしてきたと思っているものはあやふやだったことに誰もが気づいてしまいあたふたする。
途方にくれるかもしれない。
自分がやってきた、自分でやってきた、そんな風に思ってまっすぐ前を向いて歩いてきたと思っていても、なんだ何をやったんだっけ?
というか、そもそもその追い求めていた幸せってなんだっけ?
あるとかないとか以前に、必要な概念なのかさえ曖昧になってくる。
これしかない、これだ、これができなきゃなんて固執していたことなんていったいどれだけ大切なものなんだろう。
何かもっともっと知らなくてはならないものがあるのではないか?
もっともっと感じなければならないことがあるのではないか?
もっともっと確かにできることがあるのではないか?
なんだか、本当の世界と自分がいる世界がずいぶん遠くにあるように思えてくる。
そうなってくると、今まで歩いてきた道が前に続く道と一緒なのかもわからなく、
立っていることが困難みたいに思えてくる。だって今までしてきたことは一切無駄なんだろうか?
なにもない、何も知らない

でも本当は、その大事なもの、大切なもの、知るべきこと、そういうものは、
自分の中にしかないのだということが分かる。
もっと言うのであれば、今の自分の中にしかないのだということ。
完全に懐疑的になってしまった曖昧な自分だと思うその中にあるものでしか、自分に答えを示すことはない。
自分の中にないことは存在していないのと同じ。
ましてや他人の中にあることなんて遠い遠い遙か彼方の出来事だ。
それでは、自分の中にいったい何があるんだ、何もなかったって気づいたから途方にくれているのに、
自分に返ったって何も見つかりはしないと思うだろうか。
それはきっと違う。
何もないと思うのは、ただ今まで外に向かってしか意識を向けていなかったからではないのか。
本当は知りもしない、求めているかもわからない幸せみたいなものだけを追いかけていたからではないか。
自分の中を探ることをしてこなかったから知らないだけで、本当は全ては今の自分の中にあるはずだ。
自分を探ることは世界を探ることと同義である。

これが私がヨガを始めてから感じること。
ヨガをしていると、一つのことが(ことしか)頭に浮かばないんだけど、
それはねきっと今の私が一番受容したいこと(問題ともいえるのかな)なんだと思う。
どんな答えを手にしてどんなふうに受容していくのかは分からないけど、今一番のクエッションなのだろう。
それはね、この一年少しの間に、少しずつ、少しずつ、出会えば書きとめ、断片を見つけてはメモし、ヒントを見つけてはスクラップし、
頭が許す限り考えて、段々まとまってきたモノ、段々と見つけ始めた方向と確かに合わさってきている。

今の自分をそのまま受け入れる

その先にあるのは何だろう。
その先にあるのもまた今の自分なんだろう。
でもまだ手にしたことがない。

前とか後ろとか、いってみれば過去や未来なんてものはないんだという
ただ今の自分があるだけっていう感覚があるのかな。