The place of shine.

学者というものはすごいですね。
みなが、漠然と知っているようなことを、観察し、研究し、言語化し、万人にわかりやすく表現する。
たいしたものです。
だけど、小説家というものも、随分たいしたものです。
それをメインに勉強するわけでないのに、学者と同じようなレベルで物事を深く捉えることができるわけです。
それは無意識を捉える能力なのか、文章を書いていくと自然とそうなるのかは私には判断できないが、
フィクションとしてそれを表現できるというのは、人間のなしえる究極のものごとのひとつだと思います。
学説としての文章を一冊読むよりも、小説を二十冊くらい読んで同じくらいのことを、
自分の中に発見するのが、私は好きです。
そのほうが、自分の中に残るからね。
忘れない記憶のようになる。
二十冊読む間に、自分の中の会話が多く行われるからかもしれない。
学術書一冊では会得するに足りない凡人脳だからね。
それとね、小説というのは、創造物だから、フィクションだからこそ、
もっと深い部分もしくは、最も深い部分を垣間見れることがある。
それは必ずある。
人間の作るものも捨てたものではない。
素晴らしいものがたくさんある。
そうだな、それを一言で表現するのならば、
美しい。
つきぬけたものは美しいのだ。
ダビデ像は美しかった。ヴォッティチェリは美しかった。
メープルソープは美しかった。漱石も美しい。
ただ最近、小説を読んでいない。
読めていない?読む気がしない?わからないけど、学術書みたいなものを読んでいる。
新書ではないけれど。
それらを読んだ上で、また小説を読もうと思っている。
その時のことを考えると、今からブルブルする。
ゾクゾクするといったほうがいいのか。
私は本当に読書が好きで良かった。読書が趣味でよかった。
自分がなにも創造することのない生活を送っていても、
あたふたすることがない。
正気を保つことを支えてくれている。
本を読まなかったら、ぼーっと音楽を聴いたり、映画を観たり、
テレビを見たり、遊んだり、様々な事柄をなんとなしに考えては忘れ、
まあ、人生はわからないものだと、幸せならそれでいいじゃないか、
なんて思いながら、ふわふわと、不確かに生きているだけだったと思う。
本を読むということは金のかからない旅みたいなもの。
それも、実際には行くことは叶わないような場所への。
自分の中に、他人の中に、世界の中に。
それは自分からアウトプットされる表現とも違う、
人類全部を引き連れているかのような感覚がある。


アウトプットできないなら、
そのときはインプットすればいいのではないかと思う。
無闇にではなく、的確に、ピンポイントに、
一点に向かって穴を掘るように、インプットの旅を続ける。
その先に、アウトプットのイメージがあれば幸い。
なくても、たどり着いた場所は気持ちがいいはずだ。
カパラバティの後、呼吸をしなくても体も心もなんの波もたたないような
プラスでもマイナスでもない、何にもぶれない、何にもふれない、
満たされた感覚。
頭が光る、あの感覚。